2015年8月3日月曜日

BLACK LAGOONと遊技者

『ブラックラグーン』という作品がある。
悪党の集う架空の町ロアナプラを舞台に繰り広げられる、暴力の物語。
原作は広江礼威氏が描く漫画であり、アニメでは基本的な流れを踏襲しつつ若干湿り気を帯びた物語が展開されている。
また、虚淵玄氏の手によってノベライズもされていた。
パチンコはタイヨーエレック、パチスロはスパイキーによって、両方とも二つ製作されている。



ここに、あるブログのエントリを引用する。

しかし、『BLACK LAGOON』の登場人物たちはほとんど一様に幼稚です。ビジネスの世界で「経営の神様」と称されるピッタ―・ドラッガーが「自分が何によって他人に知られたいか」を自問することで、目標や生きがいが自分の腹に落ち、それが人としての成長をもたらすとしましたが、主人公のロックをはじめとする登場人物たちはそれらを持ち合わせていません。目標も生きがいもなく、非常に刹那的なスタイルで日々を過ごします。 これは考えてみると当たり前のことで、明日銃で撃ち殺されるかもしれない人間に対して、10年後の自分を見据えて計画をたてろ、と言っても無茶でしょう。今日を楽しく生きることが全てであって、そこには人としての成長余地なぞありません。
このことから、『BLACK LAGOON』は短期的かつ短絡的思考の罠にハマって「成長を止めた子供のような大人」たちの話であるといえます。そこで起こる事件はことごとく、原因が放置され、結果の収拾だけが行われます。それが意味するところは、すなわち事件当事者の死亡です。

BLACK LAGOON Roberta's Blood Trail : 希望を掴めなかった者が希望を見出すまで。

この記述を目にしたとき、「ああ、彼らと我々遊技者は一緒だな」と思った。彼らは銃を撃って命をやり取りし、我々はパチやスロを打って命金のやり取りをしている。そこにどれほどの差があるだろうか。況して、向こうは物語、こちらはたとえ金額が小さかろうとも現実、だ。明日の糧を得るための専業も、学費や家賃を使い込む親不孝の学生も、小遣いで1パチを五千円だけ嗜む年配の方々も、多少の違いこそあれホールへ打ち手として行く人間であれば皆そうなのだ。

昔からよく、「バクチは死の疑似体験」などと言われてきた。大敗を喫して懲りるくらいならかわいいもので、勝っていようが負けていようがいずれにせよ続けているような連中は皆「成長を止めた子供のような大人」ということだ。少なくとも、ホールで席について遊技をしている間は。それは周りからすれば節度をもって楽しんでいるように見える綺麗に遊んでいる方であっても、だ。

これが止まるのは、死が擬似ではなく、真に訪れた時だけなのかもしれない。

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